INTERVIEW
Vol.16
金本きれい
レベルの高い選手を要する
KYOJOというステージで
結果を出すことが父をはじめ
支えてくれた人への恩返しに
INTERVIEW
Vol.16
レベルの高い選手を要する
KYOJOというステージで
結果を出すことが父をはじめ
支えてくれた人への恩返しに
「2~3歳頃から哺乳瓶を持ってサーキット場へ行っていました。」
金本きれい選手(以下、きれい選手)のモータースポーツ人生は、よちよち歩きの頃、その扉が開いた。
「車好きの父が4つ上のお兄ちゃんをレーサーにするために、ほぼ毎週末、名阪スポーツランドへ私たちを連れていってくれました。お兄ちゃんはスジが良くて8歳のときにキッズカートのレースで優勝して。夏休みだったのもあって、そのお祝いで海へ行ったんですが、そこで事故に遭って亡くなってしまったんです。」
悲痛な経験にも関わらず、さらっと話してくれたのは、事柄の重さを感じさせまいとする心遣いなのだろう。きれい選手の明るくおおらかな性格に救われる。だが、ご家族の喪失感はいかばかりか。
「当時のことは鮮明に覚えています。お兄ちゃんが亡くなってすぐ、カートを始めることになって。最初は否応なく乗らされた感じでした。でもお父さんがショックを受けている姿も、お兄ちゃんがF1を目指して頑張っていた姿も見ていたので、嫌々半分、半分は仕方なく、という気持ちで始めたのがきっかけです。」
兄の夢はきれい選手に託され、父は悲しみを打ち消すように娘のカート教育に情熱を注いだ。
「まだ4歳でしたが、すごくスパルタでした。やっぱりお兄ちゃんが速かったんで、また1から始めるとなると、お父さん的にはお兄ちゃんを超えてほしいという気持ちが強くなったんだと思います。」
だが父の熱意に反して、小学生時代はなかなか思うようには結果が出せなかった。
そうした背景もあり、きれい選手がカートをやめたいと思ったことは一度や二度ではない。
「女の子は筋力が少ないので、ご飯前の筋トレが鉄則で。腕立て、腹筋、スクワットを100回ずつしないとご飯が食べられなかったり、グランツーリズモでお父さんと走ったりを毎日、繰り返していました。走行練習も含めて、学校行事もそっちのけでカートを優先していたので、いわゆる普通の生活に憧れたりもたまにはありました。」
父から千本ノックを受けるような毎日はハードだったが、きれい選手はじわじわとその効果を実感するようになる。
「中学生から全国大会のレースに出るようになって、全国のサーキットに遠征していろんな選手と走ったりする中で、レースが急に上手くなったんです。少しずつタイムが安定してバトルにも余裕が出てくると、走行しながら『もうちょっと周回増えてほしい』と思えるようになって。それからですね、カートが楽しくなりました。」
強くなるほど、さらなる高みを目指すのは競争の世界では不文律だ。鈴鹿サーキットで開催されたカートレースでは男女混戦の中で何度も表彰台に立ち、コースレコードも取った。カートで成績を残すことで、少しは親孝行もできた。きれい選手は普通自動車免許を取得できる年齢になり、新たなターニングポイントを迎える。
「フォーミュラカーに憧れがあって、四輪にステップアップしたい気持ちはありましたが、四輪はどうしても費用がかかるので、カートで区切りをつけようかなと思ったこともありました。そんなとき、カート友だちだった斎藤愛未選手に『KYOJO CUPというのがあって、VITAに乗れるからおいでよ。』みたいな感じで呼んでもらって。そこからですね。」
遊びにいくような気軽さで出かけてみると、予期せずそこはKYOJO CUPのオーディション会場だった。まだきれい選手は免許取得のために教習所へ通っている最中だったが、オーガナイザーの関谷正徳氏からオファーを受け、2021年の出場を決めた。
「はじめはKYOJO CUPの存在すら知らなくて。女性だけのレースって今まであんまりなかったので、他のワンメイクレースに比べてレベルが低く見られているイメージがちょっとありました。でも参戦してみると全然そんなことはなくて、むしろ刺激を受けて勉強になることばかりです。KYOJO CUPは、FCR VITAのレースで表彰台に乗るくらいレベルの高い選手をたくさん輩出していて、こういうステージで私も活躍したいなと思います。」
カートレースでは常に父が同伴していたが、今は一人でサーキット場へ向かう。それはきれい選手の一つの目標でもあった。巣立ちのときが来たのだ。
「最近一人暮らしを始めたんですが、ファンの方々がSNSに書いてくださる『おつかれ!』『がんばってね!』の一言がうれしくて。スポンサーさんはもちろん、たくさんの方々にお世話になってレースを続けられているので、結果で恩返しできるようがんばります!」